首都と古都のあいだで

日頃の鬱憤を公開する自己満マン

渋沢先生に学ぶ

この世界には二種類の人間しかいない。

 

 

仮想通貨で儲けた人、儲けられなかった人。

 

儲けることができた人の中には「労働なんてやってらんねー」と言って、労働することの意義をふと疑問に感じてしまったり、労働者を蔑むような発言をしてしまう方もおられるように思う。

 

儲けられなかった人は、仮想通貨界隈のインフルエンサーたちのSNS上にクソリプ・誹謗中傷メッセージを送りつけたり、労働価値説を疑問視するインフルエンサーたちに「いやいや…あなたが生活していられるのも労働者が汗水を垂らして働いているからなんですよ…。」とたしなめてみたりしている。

 

わたしは、これらのやり合いに良い気がしないでいた。

 

どっちが偉いとか、アホだとか、意味がない。

 

人間だから、いがみあうのは仕方がないけど、居心地が悪かった。

 

そんな中、一冊の本に出会う。

 

渋沢栄一論語と算盤」である。

 

落合陽一氏がLivePicksで紹介していた。

 

最近、電車の中で読んでいる。

 

そして今日、ある部分を読んで心が動いた。

 

靄が晴れた気がした。

 

ぜひ引用させてほしい。

 

王道 ー「思いやりの道」をただ歩むだけだ 

 

 思うに、社会問題とか労働問題といったものはたんに法律の力ばかりで解決されるものではない。たとえば一家庭内においても、父子兄弟親戚に至るまで、みな自分の権利や義務を主張して、何から何まで法律の裁きを仰ごうとすれば、どうなるだろう。みなの気持ちは険悪となり、人と人との間にカベが築かれて、事ある事に争いがおこり、一家が仲良くひとつにまとまることなど望めなくなってしまう。

 

 わたしは、富めるものと貧しい者との関係も、これに等しい面があると思っている。資本家と労働者との間には、もともと家族的な関係が成立していた。ところが今、法を設定してそれによって取り締まって行こうとしている。これは一応もっともな思いつきではあるかもしれないが、 これを実施した結果が果たして当局の理想通りに行くものであろうか。

 

 資本家と労働者との間には、長年にわたって結ばれてきた一種の情愛の雰囲気があった。ところが法を設けて、両者の権利や義務を明らかに主張できるようにしてしまえば、自然の成り行きとして、せっかくの両者の関係にスキマを作ってしまうことにならないだろうか。それでは政府側が骨を折った甲斐もなく、また目的にも反することになってしまう。ここは一番、深く研究しなければならないところではないかと思う

 

 ためしに私の希望を述べるとするなら、法の制定はもちろんよいが、法があるからといって、むやみにその裁きを仰がないようにして欲しいと思っている。もし富める者も貧しい者とともに「思いやりの道」を選び、そして「思いやりの道」こそ人の行いをはかる定規であると考えて社会を渡っていくなら、百の法律があろうと、千の規則があろうと、そちらの方がすぐれていると思うのだ。

 

 言葉を換えれば、資本家は「思いやりの道」によって労働者と向き合い、労働者もまた「思いやりの道」によって資本家と向き合い、両者の関わる事業の損得は、そもそも共通の前提に立っていることを悟るべきなのだ。そして、お互いに相手を思いやる気持ちを持ち続ける心がけがあってこそ、初めて本当の調和が実現できるのである。実際に両者がこうなってしまえば、権利や義務といった考え方は、無意味に両者の関係にミゾをつくるばかりで、ほとんど何も効果を発揮しないといってよいだろう。

 

(中略)

 

 ところが今の社会には、こういった点に深く注意を払おうともせず、貧富の格差を無闇やたらとなくそうと願うものがいる。しかし貧富の格差は、程度の差はあるにせよ、いつの世、いかなる時代にもまったく存在しないというわけにはいかないものだ。

 

 もちろん、国民全部がみな富めるものになれるのが望ましいのだが、人には賢さや能力という点でどうしても差がある。誰も彼もが一律に豊かになる、というのはちょっと無理な願いなのだ。だから、富を分配して差をなくしてしまうなどというのは、思いもよらない空想にすぎない。要するに、

 

「金持ちがいるから、貧しい人々が生まれてしまうのだ」

 

 などといった考え方で、世の中の人がみな、社会から金持ちを追い出そうとしたら、どうやって国に豊かさや力強さをもたらせばよいのだろう。個人の豊かさとは、すなわち国家の豊かさだ。個人が豊かになりたいと思わないで、どうして国が豊かになっていくだろう。国家を豊かにし、自分も地位や名誉を手に入れたいと思うから、人々は日夜努力するのだ。その結果として貧富の格差が生まれるのなら、それは自然の成り行きであって、人間社会の逃れられない宿命と考え、あきらめるより外にない。

 

とはいえ、常に貧しい人と金持ちの関係を円満にし、両者の調和を図ろうと努力することは、もののわかった人間に課せられた絶えざる義務なのである。それなのに、

 

「自然の成り行きだし、人間社会の宿命だから」

 

 と、流されるがままに放置してしまえば、ついには取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうのも自然の結果なのだ。だから、わざわいを小さいうちに防ぐ手段として、是非とも「思いやりの道」を盛り上げていくよう切望する。

 

 

 

渋沢栄一『現代語訳 論語と算盤』(守屋淳訳)、筑摩書房ちくま新書)、2010年 、152頁

 

いかがだっただろうか。

 

本文では「資本家と労働者」という対立軸で語られているが、これを

 

億り人と庶民

 

と置き換えることも可能であるように思う。

 

 

渋沢栄一は「論語」に影響を受けており、自身の実業においても「論語」の考え方を取り入れている。

 

 

『「思いやり」がどうこうって、結局は精神論じゃねえか渋沢先生よ』

 

とお思いの方もおられよう。

 

まあでもいいじゃないの。100年以上も前の人なんだから。(しかも渋沢は出版当時70オーバーのおじいさん)

 

 

とりあえずわたしはこう思います。

 

『人間、向き不向き、あるやん』

 

仮想通貨で億った人はお国に税金をたっぷり納めますから、しっかり社会貢献されます。素晴らしいことです。使い道はともかく

 

労働も尊いです。

 

わたしは八百屋でバイトしてますが(今月でやめるけどw)八百屋さんがいなかったらお鍋で白菜食べられないし、おでんで大根も炊けません。

 

八百屋さんが働いてくれてるからメシが食えるのです。

 

 

本文にもありますが、「思いやりの気持ちを持つ」といういかにも小学校の道徳の教科書みたいな、些細な心がけが、煩悩を消し去るのです。

 

さあ、思いやろう。

 

そして悩んだら古典に触れ、先達から大いに学ぼう。

 

以上です。

 

 

 

(今、およそ2680文字なんです。大学…レポート…書けない…)

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